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風になったおかあさん

 

 

空気のそよそよの流れです。空気に描ける特別の絵の具がもしもあるならば、やっぱり青がいいでしょう。青い絵の具でちょっとだけ先をしめらせた絵筆で軽く空気にふれてみます。するとひと筋の青い線がすうっとどこまでも続いていきそうです。

 時は五月。寒くはありません。かといって暑すぎることもない、ちょうどよい気候です。限りなくすみわたった高い空の南から北を、とびが一羽流れるように翔んでいきました。

 コズエは肺をわずらっています。空気のきれいな土地でしばらく療養するのが一番よく、うまくいけば手術をしなくてもいいほど、すっかりよくなってしまうかもしれないということです。

 そういうわけでふた月前にコズエはおばあちゃんの家のあるこの土地にやってきたのです。東京の友だちと別れるのはとても寂しかったのですが、病気さえなおればすぐにでも帰れるのです。とにかく早く丈夫な身体になろうと自分にいい聞かせていました。

「せきがだいぶ出なくなったそうじゃない」

とおかあさんがいいました。でもコズエには聞こえませんでした。五月の風の、どこかしら魔的な力に魅せられたようにうっとりしていたからです。コズエの表情はまるで美しい音楽でも聴いているかのようでした。ようやくおかあさんが何かいっているらしいと気づき、

「えっ、なに」

とあわてて聞きかえすコズエのようすに、おかあさんは思わずぷっとふき出してしまいました。

 おかあさんは二週間に一度、必ずコズエのところに来てくれます。元気そうなコズエの姿を見ては、とてもうれしい顔をして帰っていきます。きょうもおばあちゃんのうちにつくや、コズエが草原にいることを聞いてやってきました。それでさっきからいっしょに風とたわむれていたところです。

 この土地はおかあさんが、生まれてから大人になるまでをずっと過ごしてきた場所なのです。だからこの町をおとずれる時は、なんとなくうきうきしているようです。特にコズエの身体の調子がずっといいので、それはなおさらです。

 いつかおばあちゃんに聞いたことがあります。おかあさんも小さい頃からこの草原がすきで、天気のよい日はよくここで遊んでいたそうです。遊ぶといっても、おにごっこやかくれんぼやかんけり遊び、それや女の子がよくやったゴムとびとかをするわけではなく、何もしないでただぼんやりしていたそうです。ふだんはとっても活発な子なのに、なぜかこの草原では静かで、何をするでもなく時の流れを送っていたのが少しふしぎといえばふしぎだった、とおばあちゃんはいっていました。

 けれど今、コズエもその時のおかあさんの気持ちがわかるような気がします。何となく、ここに吹いてくる風にあたっているだけで、ちょっと言葉ではいえないしあわせな気分になれることにコズエも気がついていたのです。

 夜になりました。今夜はひさしぶりにおかあさんといっしょです。おかあさんはコズエを日の見峰に案内してくれました。日の見峰というのは、夕日がとてもきれいに見られる小高い丘で、近辺の町からもその美しい夕日を見るために人がおとずれ、週末などはかなりにぎわいといいます。今の季節は、ちょうどここから月もよく見えるらしくて、おかあさんはどうしてもここの月を見せたいと、ずいぶんはしゃいだようすでここにコズエをつれてきたのです。

「わあっ、ほんとに月がきれいだね」

 コズエがことさらに感心した声をあげると、おかあさんは、

「ねっ、きれいでしょう」

と、いつものおかあさんとはちょっと違う無邪気な顔でいいました。それはまるで子供にかえったような顔でした。コズエはなんとなくふしぎでした。そのことをいおうかどうかまよっていましたが、結局だまっていました。

「このあたりはおかあさんにとってね、いろんな思い出がつまった場所なの・・・」

 おかあさんのこの言葉は半分はコズエに、そして半分は自分自身にいい聞かせているかのようでした。この丘から見おろしことのできる町の夜景とは逆のほうに、昼間の草原が広がっているらしいのですが、さすがに月のあかりをかりても、草原のあたりは暗くて何も見えません。おかあさんの声がしました。

「ふしぎな草原なの」

「えっ、ふしぎって・・・」

 コズエが問いかえしても、おかあさんはだまったままです。やっぱりきょうのおかあさんはちょっとへんで、だいぶたってから聞こえるか聞こえないかの声でぽつりと、

「風になったのよ。あの日・・・」

といったのです。コズエには何のことだかわかりません。

「おかあさん、おばあちゃんち帰ろうよ」

 コズエがそういうと、おかあさんははっとしたように、

「そうね」

といいました。ふたりは日の見峰をあとにしました。

 コズエはおばあちゃんの家でずっと考えていました。おかあさんのことをです。この町にいた頃のおかあさんって、いったいどんな女の子だったかな・・・、と。

 今のおかあさんは、そこぬけに明るい性格。ふだんはやさしくて、でもおこったらすごくこわい時もあるし、そうだ涙もろいところもあるな・・・。そして、そうそうすごいおっちょこちょいだ。でも、すごくしっかりしてるぞ。コズエの知るかぎりではそんなところでした。

 でもきょう草原で、そして日の見峰で見たおかあさんの表情は正直なところ、今までに見たことはありませんでした。

「へんなことばっかりいってたし、人が違ってるみたいだったな」

 コズエは首をかしげながらおかあさんを見ました。でも今おばあちゃんと話しているおかあさんはまったくふつうのおかあさんです。

「コズエちゃんきょうはちょっとへんだね。ははあ、おかあさんがきてるからかな」

 そんなふうにおばあちゃんがいうので、コズエは心の中でさけびました。

「へんなのはわたしじゃないわよ」

 次の日、おかあさんを駅まで見送る途中、少し遠まわりして草原に来ました。青空が広がっていてとてもさわやかでした。

「きょうもいい天気。この町って空気がすんでて、気持ちいいね」

 コズエがいうと、おかあさんはにっこりとうなずきました。その時おかあさんの表情がにわかに変わりました。

「あっ、この風、この風だわ」

「またあ・・・」

 コズエはあきれ顔になりました。きのうからおかあさんは、本当にどうしたのでしょう。

「コズエ、思い出したの。おかあさんが小さかった頃、風になったの。ううん、本当なの。この南からの風、この風が吹く時、風になれるの・・・」

目には自信があふれていました。おかあさんは思い出したのです。幼い頃この草原で遊んだ日、風になったことを・・・。

 だれが教えてくれたのかはおぼえていません。五月、南南東から吹く風が南風に変わる瞬間、思いきり大地をけって跳び上がるのです。その時、

「風にして」

と、大声でさけばなければなりません。すると、ほんの短い間ですが、風になれるのです。

 幼い日、おかあさんは一度っきり、こうして風になりました。いや、なったことがあるようです。なにしろずっと昔のことなのです。

「あの時とちょうど同じなの」

 おかあさんは静かに風の流れをとらえました。南南東の風が南風に変わる瞬間を感じとりました。

「風にして」

 コズエはどきっとしました。おかあさんの姿が消えました。青いワンピースの色がかすかなひと筋の線になって、つーっと流れているだけです。

「おかあさん・・・」

 コズエは口をぽかんとあけたままです。目の前にあるのは、一見すがしい空気の流れです。おかあさんは気持ちよさそうにいいました。

「今、風になってるのね」

 そうです。今おかあさんは、ほら風になっているのです。まったく夢のような現実です。それはしかし一瞬きりでした。横に立ったおかあさんにコズエはいいました。

「風になったね。今おかあさん風になってたね」

 さっき見たのは風。それは透明な風でした。そしてそれは、おかあさんでした。

「人にいっても、誰も信じてくれないよね」

「そうね。誰にもいわないほうがいいかもね。コズエとおかあさんのだいじな秘密にしましょう」

 気がつくと、草原にはなおもコズエとおかあさんをうっとりさせるようなそよそよの風が、いたずらっぽく笑いながらそよいでいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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